「好きに決まってるじゃない……愛してるわ……たとえ、甥でも」


     ドクンッと心臓が信じられないくらいの音を立てて跳ねた。
     柄にもなくバクバクと心音を鳴らす心臓が身体の中から飛び出そうとしているようで痛い。さらにそれに比例するかのように頭の中では嘘のような台詞が木霊し続ける。
     愛している―――アイシテイル―――?
     眼球が開く。口が半開きになる。ぶるぶると身体が痙攣したように震える。まるで身体が言うことをきかない。
     
     さっ、きのは、幻、聴か?

     そうとしか考えられない。だってこの人は娘もいるし、家族思いで。さらには聡明な人で。
     嘘だと、言って欲しい。
     攻撃のような呪文が祐一のことを責め続ける。
     愛していると聴こえた。アイシテイルと。あいしている。
     ―――愛してるって、どういうことだ?
     くわんくわんと頭が揺れる感じがする。なのに視線だけはハッキリしていて、窓際に映るサボテンが異様にくっきりと見える。
     祐一の掌から、カップが滑り落ちて―――割れた。

     
     「ぁ―――…」


     ガシャンッ


     「っ!? え、って―――ゆういち、さん―――?」


     陶器が割れる甲高い音で秋子と祐一は我に返った。秋子は俯いていた顔を上げる。祐一を確認するとふるふると震え始めた。
     祐一はというと割れたカップなぞには目もくれず、泣き出しそうな顔をしている秋子を見つめた。


     「秋子、さん―――いま」
     「……ぅ……」


     祐一は自分で何を言っているか分からなかった。それは頭で考えている台詞とは違ったものだから。
     誰かが自分を腹話術師のように操っているのでは? そんな馬鹿げた妄想をこの時祐一はした。
     脚が、勝手に一歩踏み出した。
     それに合わせて秋子の身体が少し強張る。両手で身体を抱えるようにして。されど目線だけは何故か祐一を向いていた。
     何かを。叶うはずのないと思っていた何かを期待するように。
     祐一が、静かに近づいてくる。


     「いま…誰のことを想って言ったんです…か?」
     「―――それ、は」
     

     一歩ずつしっかりと祐一は歩み寄ってくる。
     祐一自身は気づいていなかったが、どうしたわけか祐一の震えは止まっていた。心臓は高鳴り続けていたが。
     どこかでふっきれた部分があったのかもしれない。
     嘘だ嘘だと思い込むことを彼の本能が嫌っていたのかもしれない。
     
     パキン、とスリッパに下敷きにされて破片が割れた。そしてもう一歩。


     「秋子、さん。僕ら、こんな関係になっては駄目なんですよ。それを、分かっていますか」
     「―――っ……」

     
     鋭利な刃を持った祐一の言葉が秋子に突き刺さっていく。
     そして秋子は一筋の涙を流した。
     その台詞を聞き、淡い期待は粉々に砕けてしまったように。
     祐一の腕が秋子の背中に回される。秋子は正面から抱きしめられていた。


     「泣かないで、ね」
     

     祐一に優しく語り掛けられ、秋子はついに陥落した。隠してきた言葉たちが、崩壊したダムのように出てくる。


     「っ、私だって分かってましたっ…駄目だって! 世間的にも許されないしっ…名雪が哀しむって分かってた! 何度も諦めようとした!」
     「…………」
     「でも、さっき……あの子と話していて気付いた……もう、限界だって。だから……」
     「……秋子さん」
     「……さっきのことは、忘れてください……」


     秋子は目線を逸らした。これ以上祐一の目を見ていられない気持ちと諦めた感情がそうさせた。
     しかし俯くことは出来なかった。優しくだが、顔を抑えられていたからだ。
     強張っていた祐一の顔がふっと和らぐ。


     「―――僕も、愛していますよ、秋子さん……」


     何か、おかしなことが聴こえたような気がした。
     さっき自分が言った言葉と同じものが聴こえたような気がした。いや、気ではない。実際に祐一がそう言ったのだ。
     そう気付くまでに、ゆうに5秒は費やした。


     「…うそ」
     「嘘じゃないです。ずっと、昔から好きだった」


     嘘だと言って欲しい。そんなわけないって。
     抱きしめられたのだって、あんな台詞を聞かれたのだって夢だって否定して欲しかった。
     本当は、そんなことないくせに。

     秋子は確実に自分の中で何かが変わっていくような気がした。
     燃えていた慕情がさらに過剰になり、しかしどこからか冷たい風が吹いてその恋情を永遠に固まらせようとしていた。
     そう、それはまるで硝子細工を創るのによく似ていた。


     「嘘、です。だって私なんて綺麗じゃないし、それに歳だって」
     「歳なんか関係ない。容姿だって貴女がどう思っていたって。昔から、その秋子さんが好きだったんだから」


     祐一はもう何も言わせまいというように秋子を抱きしめた。つられるように秋子も祐一の背中に腕を回す。
     泣いた所為と先の祐一の台詞の所為で秋子の目は潤んでいた。
     綺麗です、と小声で呟いて祐一は秋子に口付けた。まるで契りを交わすかのように。

     祐一に口付けられ、秋子は終わったと思った。
     恋情という硝子細工は粉々に砕け散ったのだと。
     …―――パキィ――――ン……という音は秋子の中で響いた。
     この人なしでは、もう生きられない。恋という言葉では到底片付けられない。依存してしまうと確信した。

     いつまでも、切れ味のいい音が、響き渡っていた。







     それからの一月は二人にとって短く、儚く、そして尊いものだった。
     いくら二人が好きあっていたとしても二人の関係は甥と叔母。世間では認められない関係だったから迂闊な行動は出来なかった。
     キスをすることなんて勿論のこと、デートすら出来ず、街に出て手を繋いで歩くことすら難しいことだった。
     しかし祐一たちはそんなこと気にもしなかった。近くにお互いがいる。それを感じられるだけで満足していたのだ。
     それに家の中でなら、娘が寝てしまってからならばれる事はない。口に出したことはなかったが、二人は共通の意識を持っていた。
     
     そんな折。
     名雪は香里と遊びに行くといって出かけていったので、祐一と秋子は家の中でゆっくりとすごしていた。ソファの上で肩を寄せながら何を言うでもなく触れ合っていたときのことだった。
     映画にでも行きませんか?と祐一は秋子を誘った。


     「映画?」


     えぇと祐一は答える。
     どうしてそんなことを言い出したのか。秋子は目線だけで尋ねた。別に、理由などなかった。ただもう少しでクリスマスであるから、たまには違うことをしようと少し考えただけなのだ。
     聖夜は二人で過ごすことは勿論出来ないし、特に反論する理由もなかったので秋子は了承した。
     それが、どんなに迂闊なことだったかも気付かずに。

















    * * *



















     「……懐かしいな、ここは」


     思わず足を止めてしまったのは、今も色褪せることなくそこにある公園だった。なんといっても噴水が特徴的で、冬でも水が止まることがなく、特に夜は神秘的な風景を醸し出す。
     祐一は辺りをきょろきょろと見回した。
     もう秋も終わりに近づいているので気温は低い。そのためか、今その場にいるのは祐一だけであった。

     この街の中でも特に印象深い場所といわれたらと問いかけられたら祐一はこの場所が思い浮かぶだろう。。
     どうも人間というものは思い出に残っていることというと一番最初に幸せなことではないことが思いつくらしい。まず悲しいこと、辛いことがふっと思い出され、その次によかったことを思い出す。辛いことのほうが良い思い出というわけなのかもしれない。
     だから、無意識にこの場所に来たのかもしれない。この、神秘的で、辛い経験をした場所に。

     今はもういない年下の彼女がいつも絵を描いていたベンチに腰を下ろす。
     はぁ―――と空に向けて息を深く吐く。空はもう朱色に染まり、燃えていた。静かだった。目を閉じて耳をすませてみればどこかから子供たちの笑い声が聞こえてきそうなほど。
     そんな中に祐一は過去に思いを馳せた。


     映画を見に行った帰りだった。適当に買い物も済ませ、二人でついさっき見た映画の感想を話しながら帰っている途中だった。この居心地のよい空気を壊したくなくて二人は公園へと入った。噴水が遠目に覗えるベンチに座り話をしていた。祐一は友人といるときよりも落ち着いた感じで秋子と話していた。それは、秋子が本来の姿を見せているからであった。淑女と呼ばれるに相応しいほど彼女は落ち着いた女性なのだ。
     二人が見たのは『空より遠い夢』というタイトルの映画だった。海外でベストセラーとなった本が劇場化したものだ。
     時代は中世。乱戦の起こる欧州の地で、戦いに身をおく兵士とその王女の恋の物語だった。
     身分違いの恋。王女には既に許婚の相手がいた。しかし二人は惹かれあった。王女は心優しい人だった。自国が戦争をし、領土を増やそうとしている。そのために多くの血が流れることに心を痛めていたのだった。そんな折に出会ったのがその兵士だった。出会った瞬間から二人は惹かれあい、恋に落ちた。
     しかし、そんなものが世間に通じるわけもない。たちまちに二人は引き裂かれ、兵士は処刑されることとなった。
     最後の逢瀬の時。王女は哀しかったが、兵士は満足そうに笑顔を王女に見せた。どうして笑えるの?あなたは殺されてしまうのに。王女は涙を流しながらそう訊いた。
     兵士は笑顔を崩さずこう答えた。

     
     『貴女が生きていられることが嬉しいからですよ』


     殺されるのは兵士のみだった。王女はその言葉を聞き、さらに泣いた。兵士は王女を胸にしまい込み、抱きしめた。
     そして、王女に知られることなく一筋だけの涙を流し王女にこう言った。




     「笑って、生きてくださいね」

     
     祐一は秋子の瞳を見ながらそう言った。映画に出てきた台詞をそのまま秋子に伝えた。真剣な顔つきでそう言ったのだ。
     どうしてそんなことを祐一が言ったのか、その本心を覗き込むことは出来ない。
     しかしあまり見せないその真摯な瞳に胸を切なくさせた秋子は静かに「はい…」と答える。そうして顔を近づけようとした瞬間。


     「―――お母さん、なに、してるの」


     








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