少しだけ肌寒い秋風が青年の身体を吹きぬける。
     彼は手を伸ばしても届きそうにないほど高い秋空を見上げた。
     透き通る青空。真っ白い雲。ごろりと寝転がると白い雲がゆっくりと、されどしっかりと動いていくのが目視できる。ヒュウとまた風が吹いた。
     
     青年がいるのは、人っ子1人いない小高い丘だった。短く刈られた草が背中に当たって気持ちがいい。目を閉じてみればカサカサと風に揺れる草木の音が聞こえてくる。
     目を閉じて、心のキャンパスに、もう何度も見てきた風景を描く。春、夏、秋、冬。いつも丘から見下ろしてきた町。特に冬景色は一番印象に残っている。
     少しだけ考えて、それもそうか。と青年は一人内心で納得する。
     一番最初にこの町に来たのも冬だったし、彼女と心を交し合ったのも冬だった。
     雪の降る夜に。届くはずがないと思っていたのに。
     ……そうか。もう、あれから3年が過ぎたか。


     「………………」


     青年は立ち上がる。
     パッパと服についた草土を落とし、一息ついて。
     細く長い茶色い髪の毛が風に靡いて、揺れる。寒がりの彼は、両手をコートのポケットに突っ込み、歩き出す。
     
     ―――時間はある。

     一度だけ振り返り、彼は丘を降りていく。
     目指すはあの町。あの寒くて温かかった場所。居心地良かったけど、追い出されてしまった場所。

     ヒュウと風が吹く。


     ゆっくりと、しかししっかりと足取りを踏む青年の名は相沢 祐一。21歳。
     

     愛し合った末、愛する人と引き離された男である。



















     
    LAST SMILE
    Presented by 三式
    [From Kanon (C)Key]





















     町の中でも特に賑わいの景色を持つ商店街を祐一は歩く。時期的には少し早いが、コートを着込んで。
     祐一が着ているのは丈が足首ほどまである黒いロングコート。買ったのは4年前だが、彼は未だに愛用している。
     
     ―――彼女に買ってもらったものだから。

     数えるのが面倒なほどに人のいる道を歩いても祐一に声を掛ける人は誰もいない。ある人は忙しそうに、ある人は退屈そうにすれ違うだけだ。
     まぁ、そりゃそうだと自答し納得させる。もう高校生だったときとは違う。3年も経っていて、皆大学やら就職している。しかも時期が時期だ。秋も終わりに近づいているこの時期に里帰りなどするはずもない。
     では何故、その『違う』人たちの仲間である祐一がこの場所にいるのだろうか。
     理由は単純。
     
     相沢祐一は、会社も、学校にもいっていないからである。

     そうすると、さらに疑問は浮かんでくる。
     どうして、会社にも学校にも通っていないのか。

     高校3年のときに彼は親の都合という名目でアメリカへと渡った。この町の学校を卒業することなく。
     突然の転校だった。いつの間にか手続きが行われており、アメリカへと渡る準備がされていた。
     驚いた。そんな言葉では形容することが出来ないくらい驚いた。だけど、彼よりも衝撃を受けたのは彼女だった。

     
     「…………」


     賑わう商店街を祐一は少しだけ猫背で歩く。ポケットに手を突っ込んだまま祐一は当てもなく歩く。
     昔は猫背でなど歩くことはなかった。いつも友人たちの中心的存在だった彼。昔は堂々と歩いていたその影はもう、ない。
     ヒュウと寒い風が吹いた気がした。いや、吹いたのだ。その証拠に、祐一の横を湿った枯葉が円を描きながら飛んでいく。
     だが楽しそうに歩く人たちは寒さなど微塵も気にしていない様子だ。

     ―――あぁ。
     
     分かった。寒いと感じたのは、身体ではなく心だったのだ。
     彼女がそばにいないという事実。アメリカでもいつもそう思っていたのだが、ここに来て一層そう思う。
     あぁ、弱い。
     なんて、俺は弱いのだろう。

     
     ―――祐一さん。


     穏やかな笑みを浮かべながら、柔らかい声で祐一を包む彼女。
     いつもは見せないけど、はじけるような笑顔がとても愛らしい彼女。
     そのくせ、大人な雰囲気を持って祐一を惑わせる彼女。
      
     何日、何年経っても克明に思い出せる。その仕草、その顔。
     愛しくて、しょうがなかった。



     そのまま5分ほど歩いていると、いつも彼女と買い物をする米屋が視界に入った。
     あの頃が脳裏に映し出される。


     ―――ねぇ祐一さん。片方、持ちましょうか?
     

     少しだけ済まなそうにして、20kgもある米袋を運ぶ祐一を気遣う彼女。 
     そんな時、祐一はいつもこう思う。
     自分が荷物持ちに頼んだというのにそんなこと気にしなくていいのに。それに、そんな顔をしないでほしいのにな。
     

     「いつも、俺に気を遣っていたな、あの人は…」


     てくてくと歩く。
     次々と映し出される思い出のカケラたち。楽しかったことや、嬉しかったこと。
     涙は、出ない。
     じぃっと感慨に耽りながら、その店を遠くから覗く。中から、店主が出てくる。
     訝しげな表情を浮かべながらきょろきょろと辺りを見回している。…こちらに、気付く。
     あれ…。と何かを思い出したかのように店主はこちらに向かって口を開こうとする。
     
     ――逃げる。

     話しかけられたくはない。誰にも。誰にもだ。
     ―――あの人以外の何人にも。
     
     踵を返し、来た道を戻っていく。
     ここには懐かしい思い出が多くて、彼女との記録が残っていて嬉しい。
     だけれども。
     妙に右腕が寂しくて、祐一は何かを振り払うかのようにその場を後にした。


     ―――先刻、祐一がいた場所。
     
     そこには、元は一本の三つ編みだった髪をおろした女性が立っていた。白いカーディガンを羽織り、ロングスカートを穿いたその女性は傍目から見ると、お世辞にも元気には見えない顔つきをしていた。昔の友人や、また家族が今の女性を見たならば確実にこういうだろう。
     『痩せた?』と。
     元々のプロポーションが良い彼女は痩せても意味がない。周囲がそれを認めている。ならば何故この疑問が第一に浮かんでくるのであろう。
     それは、痩せたのではなく。やつれているのだった。昔の穏やかな顔つきはその面影すら残していない。
     名を、水瀬 秋子という。
     

     「ふぅ……」


     何も考えていないのにため息が出る。
     買い物に来ていた。昔とは違う店に通い、適当に惣菜を買って帰る。なんの味気もないその生活。昔は忙しい中でも料理を楽しんでいたというのに。
     今では、何もかもが面倒に思えて。

     秋子は今一人暮らしをしている。
     暮らす家は変わっていないが、愛していた一人娘は高校を卒業してもういない。娘は今では遠くの地へ行ってしまった。確か関東だった気がする。この北の地で陸上競技において名を馳せていた娘は、その才能を買われ関東の大学で寮に住み込んでいる。
     夫は、何年も前に亡くなった。
     そして、居候のあの甥は。
     
     う、と目頭が熱くなってくる。

     ダメだなぁと心の中でぼやく。
     いつからこんなに弱くなったのか。あの日あの時、心を交し合う前までは心を強く持っていたというのに。
     21年前、結婚したとき、私は一生涯この人と歩んでいくのだと確信していた。が、それは何年も前に叶わぬ夢となった。夫が死に、娘を養うために強くなった。涙なんて忘れるくらいに。
     表面上は穏やかに。何事も娘のためと心を封印して生きてきた。
     余計だったのは、4年前に居候に来た、甥。
     姉の子供だ。姉夫婦が海外に転勤するということで、外国に不慣れな息子を自分の家に住ませてくれと頼まれ、彼を迎え入れた。
     素直な、いい青年だった。明るくて、冗談が好きで。他人が向ける自分への気持ちには疎いくせに、友人の様子には敏感。何より、暖かかった。
     自分の、冷たくした心を溶かすほどに。

     だから、惹かれた。
     
     最初は気付かなかったのだ。自分の気持ちになど。自分は冷たい人間だと思い込んでいたから。
     それに、20年も前に立てた誓いが。夫のことを愛しているという誓約があったから。
     気付いたのは、そう。
     愛すべき娘の一言だった。


     『お母さん、祐一と一緒だとよく笑うね』







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